稲魂(いなだま) 日本の文化を民俗学や歴史学の視点から調べてみると、稲や米がとても大切な意味をもつ食べ物であったことがわかります。秋の勤労感謝の日は、もとは新嘗祭(にいなめさい)の日でしたが、それは古代から続く稲の収穫感謝の祭りの日でした。稲には、稲魂(いなだま)とか穀霊(こくれい)という言葉があるように、人間の生命力を強化する霊力があると考えられてきました。春夏秋冬の季節のめぐりの中で、長い時間と労力をかけて気候の変動にも影響をうけながら、毎年一回ずつ収穫されるその年の新しいお米、それを炊いて食べることによって、人びとの生命力がひとつずつ強化され更新されると考えられたのです。
餅と白鳥 稲や米の霊力は、それを醸して造る酒や、搗き固めて作る餅の場合には、さらに倍増するとも考えられました。酒は百薬の長といわれ、医の正確な字である醫には酒をもって病いを治癒するという意味が含まれています。神社の祭りや冠婚葬祭では、お酒は欠かせない飲み物です。また、餅が古くから神妙な食べ物であったことを物語る伝説は、奈良時代に編纂された『豊後国風土記』や『山城国風土記』に残っています。餅を弓矢の的に見立てて射ようとしたところ、その餅は白鳥となって飛び去り、人びとは死に絶え水田も荒れ果てたというのです。白餅は白鳥に連想されており、決して粗末に扱ってはならないもの、神妙な霊性を宿すもの、と考えられていたのです。
歯固めと鏡餅 平安時代に書かれた紫式部の『源氏物語』には、正月行事について次のような記述があります。
「ここかしこに群れゐつつ、歯固めの祝いして、餅鏡さへ取りよせて、千歳のかげにしるき年の内の
祝い事どもして、そぼれあへるに、」
つまり、当時の宮中の正月行事では、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う意味で、歯固めの祝いと餅鏡つまり鏡餅の祝い、とがセットになっていました。年齢という言葉に歯の字が含まれているように、健康と長寿のためには丈夫な歯が大切だと考えられていたのです。
お正月は先祖の御魂祭り 平安時代には、お正月は死者や先祖の御魂(みたま)が友人や子や孫たちのもとを訪れると考えられていました。曾禰好忠(そねのよしただ)という人の歌に次のようなものがあります。
魂祭る 年の終わりになりにけり 今日にやまたも あはんとすらむ(『詞花和歌集』)
今年も死者や先祖の御魂を祭る歳末がやってきました、このお正月にはまた貴方にお会いできることでしょうね、というような意味の歌です。
民間の行事でも、東北地方では近年までミダマメシなどといって、お正月には握り飯に箸を立てて仏壇に供えて、先祖の御魂をまつる行事が伝えられていました。それらは古風を残した民俗であったろうと考えられます。
年神様と歳徳神 一方、日本各地の多くの地方では、正月様とか年神様と呼ばれて、漠然と新年の良運と年齢を授けにやってくる神様だと考えられていました。また、陰陽道の信仰が民間にも広まった江戸時代には、町方を中心に、お正月の神様はその年の縁起の良い方角である恵方からやってくる歳徳神だという信仰が起こり、それも地方によっては広まっていました。お正月にやってくる神様にも、先祖の御魂、年神様、歳徳神というバリエーションがあり、それは時代ごとの人びとの理解の変化でもあったのです。
そのお正月の神様は、人びとに年玉という年齢を授ける神様でもあり、同時に一年の良運を授ける神様でもあると考えられてきました。正月行事の基本は、生業の上でも、年齢の上でも、運気の上でも、すべてがリセットされるという点にあります。旧い一年に区切りをつけて、新しい年を迎え、年齢を一つ重ねて、運気を更新する、大切な節目だったのです。
鏡餅と伝統文化 鏡餅は、文字通り円い鏡の形をあらわしているとか、心臓の形をあらわしているとか、また丸く円満な人間の霊魂をかたどっているなどと言われていますが、同時に、年神様の神霊が宿る聖なる供物でもあります。そして、歯固めの願いが込められた硬い供物でもあります。
新鮮で清らかな米から搗かれた鏡餅が、歳末から床の間などで正月飾りの中心として供えられ、新年の家々の厳粛さを支え、やがて鏡開きの日にぜんざいなどにして食され、その聖なる生命力とよい運気と歯固めの効力とが人びとに分かち与えられる、このような伝統的な行事は、歴史をふまえて考えるならば、なんともおくゆかしい日本の伝統文化といってよいでしょう。
日本の伝統文化を考えるとき、重要で不可欠なことは外国にも当然大切にされている伝統文化があるということです。自分たちの歴史と文化を知るとともに、他の国の人たちの歴史と文化をよりよく知るということは、国際交流の上でもたいへん大切です。鏡餅という歴史の長い立派な奥ゆかしい日本の伝統文化を、外国の人たちにも紹介してみることも大切でしょう。そして、みずから鏡餅を飾りながら、味わいながら、新年の健康と幸運と平和を祈るとともに、諸外国の正月行事について調べてみるのも興味深いでしょう。日本の行事を実践するとともに世界の国々の伝統文化を知り、比較文化の視点でお互いの理解を深めていくことが大切でしょう。
新谷 尚紀
(しんたに たかのり)
民俗学者(社会学博士)、
1948年広島県生まれ。
早稲田大学第一文学部史学科卒業、同大学院史学専攻博士課程修了。
国立歴史民俗博物館教授・総合研究大学院大学教授。
おもな著書に『神々の原像』吉川弘文館、『日本人はなぜ賽銭を投げるのか』文藝春秋、『日本人の春夏秋冬』小学館、『ブルターニュのパルドン祭り』悠書館、『お葬式−死と慰霊の日本史−』吉川弘文館、『伊勢神宮と出雲大社−「日本」と「天皇」の誕生』講談社、など。